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12.10関東大震災

 またフィクションではありますが、「そのとき・東海-東南海-南海地震編」を書き終えたら、次は東京編を書きたいと思います。

 勘違いしないでいただきたいのが、こういったシュミレーションが防災上もっとも身を守るためには、重要なことだからです。けっして不安を煽っているわけではないのです。実際には、東海地震の連動や関東大震災が起これば、この物語のようにか、またはこれ以上のことが、現実として考えられるのです。

 地震から身を守るとは、 いま 、ここで 、地震が起こったらどうなるかを、常に考えておくことです。 実際に起こったら、その時、あなたならどう対処するか、 なのです。 いずれ起こる現実から、逃げていては、身は守れません。 読むことで、地震に挑む気持ちをもっていただけたならば、幸いなのであります。

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 2011年12月10日(土)23時34分、 皆既月食に、その時が突然首都東京を襲った。

 結婚まもないイサとキヨは、千葉で暮らしていたが、3.11のあと、将来子供が生まれてからのことを考えて、東京のはずれ多摩川に引っ越しし仲良く暮らしていた。

 イサは同じ大学に通っていたキヨと結婚し、3年が経っていた。二人の間には、まだ子供がいない。キヨがまだ現役の学生だからだ。

 イサは毎日7時に起きると、着替えて直ぐに駅に向かい、通勤電車に乗るのが日課である。イサは新宿の大手電気通信企業に勤務し、コンピューターのプログラムを組むSEを職業としていた。配属された財務課で、日々おこなわれているコンビニ決済のプログラムの管理が仕事だ。一つの間違いも許されないし、何か不具合が起こると10時過ぎまで残業することもしばしばあった。

 これは、そんなある日のことだった。システムに予期していなかった付加がかかり、原因不明の不具合が発生した。何とかそれを回避し、仕事を終えたのは午後10時50分のことである。

 イサは会社のセキュリティをパスして外に出てから、キヨに電話した。「今日は遅くなって悪かったよ。今から帰るけど、さきに寝てていいからね」と言った。

夕食を食べてから既に5時間が過ぎていたので、西新宿でうどんでも喰ってから帰るか、と古い建物ではあったが、そこは、関東醤油味ではなく、生まれ育った出汁が効いた関西味の老舗である。そこに入った。

 この時間だというのに、新宿では、席が客でいっぱいである。イサは仕方なく、入り口に近いカウンター席に腰掛け、天ぷら釜揚げうどんを注文した。この時、時計の針は23時をまわっていた。暫くして品がテーブルに届けられると、むさぼるように食べた。やっと仕事の緊張感も和らぎ、ほんのひとときの幸福感を感じていた。

 勘定を済ませ、外に出たその時だった。 ガタガタガタッと音がし、縦揺れがきたと思ったその瞬間だった。あらかじめ携帯電話に設定しておいた緊急地震速報が鳴ったが、その時には、既に空からガラスが落ち始めていた。イサは頭に革製の鞄を乗せ、ビルから離れて、安全な場所を探した。手はガラスの破片で切れて、既に出血していたが、頭を保護していたので死ぬことはない。

 地下鉄入り口の、コンクリート製テラスの下まで何とか辿り着くと、すぐさまキヨのことが頭に浮かんだ。頼むから無事で居てくれよと思いながら、携帯電話を取りだした。イサは通信関係のプロである。こんな時は、携帯電話が繋がらないことを良く知っていたので、すぐさまネット通信『スカイプ』を使って、キヨに電話した。 何とか繋がった、、、、。

 イサ「大丈夫? 無事? こっちは震度6弱から6強かな? そっちは、、、。」 キヨ「コップが割れたけどこっちは大丈夫だから。怪我は?」

すでに、道路には、ガラスの破片が致命傷になって倒れている人が 何十人もいた。 悲惨な光景である。

 だが、実は、この地震はまだ前震だったのだ。 この後やってくる、マグニチュード7.7の本震、震度7の激震が起こることなど、イサやキヨには分かるはずなどなかった。

イサは、既に何度(3.11や台風などで)か帰宅困難者を経験していた。自然災害に弱い大都会東京だが、この日も交通機関がすべて止まった。
 イサはケガで動けなくなった人に声をかけた。「大丈夫ですか」と。 だが、かえってくる言葉は、、、、、、。

 イサは鞄の中にしまっておいた、こんな時のために用意していた、帰宅地図をだした。そして暗くなった東京を家に向かってひたすら歩いた。

 闇夜、それに壊れた建物。これでは、1日で家までたどり着けるかわからない。携帯電話の予備電池はSONYのCP-2Lを満タンにして持っていたので、携帯ライトをつけたまま歩いても電池はなんとかなりそうだ。とりあえず、24時間以上歩くことになるなら、水もを確保しなければ。そう考えた。 

 寒い。イサは落ちていたお買い物バックを拾って、二つに裂いた。それからアルミ側を体に当て、ひもを首にかけ、前側と背中側に当ててから上着を羽織った。あたたかい。とっさの知恵ではあったが、体温をうばわれないために、これが結果的によかった。

 暫く歩くと、既に水道水は止まっていたが、水道管からポタポタと水が落ちていた。上を見ると、どうやらこのビルの屋上にある貯水タンクの水が、まだ残っていて、落ちているようだ。イサは落ちていたペットボトルを洗って、その水をいれ、上着のポケットにいれた。水もなんとかなった。ケガをしていた手もよく洗って、処置が出来た。それから、傷口をハンカチで縛った。

 このとき、東京じゃなかったらな、何処にでもあるヨモギを揉んでキズ口に当てれば、止血と消毒に効果があるのにな、とイサはそのとき思った。ヨモギは主成分がヨードだから、蚊に刺されたときの痒み止めにも、薬より効く、万能な野草なのだ。

準備を終えたイサは、深夜の東京を、青梅に向かってひたすら歩いた。街中に怪我をした人や息絶えた人があふれていたが、イサは心の中で、「助けてあげられなくてごめんよ」と叫びながら、早足で歩いた。

 西新宿から西東京市付近まで歩くのに、5時間、思ったより順調だな、とイサはつぶやいた。時計は午前6時40分を過ぎ、夜が明けてきた。

 東の空を見上げると、それは見事な真っ赤、深紅色の空だった。イサはこれが、大地震の前にも現れる、地震発光現象・赤化現象と云われる宏観異常現象とは知らなかったのだ。イサは「うぉ~っ なんて綺麗なんだ」と、ただただ感動した。深夜の恐怖から、幾らか緊張も和らぎ、涙があふれ出た。

 それから公園で一休みしたその時だった。 昨夜の地震より何倍も大きな、地震規模M7.7の大震災が、首都東京を襲った。

 高層ビルは大きく揺れ、その揺れはまるでメトロノームを見ているようだった。 免震構造の範囲を超え、大きな音をたてなが揺れ、窓ガラスの大半が割れ、高層ビルの窓から人なのか机やロッカーなのか分からないが、飛び出し、雨のように降り落ちていた。イサはそれを、ただ呆然と地面に伏せながら見つめていた。

 何度も何度も強い揺れが、繰り返し襲った。これは内陸直下型地震の特徴でもあるが、イサは「死にたくない」と、そう思った。

 10分ほど経って、やっと少し揺れが落ち着くと、あちらこちらで煙が見え始めた。 イサはこの時まだ、このあとやってくる『火災旋風・炎の竜巻』など、想像すらできていなかった。 関東大震災で被害を大きくした、あの火災旋風が、このあと起こった。

ここで、少し脱線するが、3.11東日本大震災の直後、仙台湾周辺について記しておこう。 それまでは晴れていたのに、地震発生後には突然雪が降り始めて、津波の第一波、第二波が町を襲い、第三波が到達した直後頃にまた晴れた。 これを私は、民間に古くから伝わる、地震による宏観異常現象の一つとされる気象擾乱が起こったためと考えているが、このことを皆様はご存じだろうか? 私の手元には、会員さんから送られてきた地震当日の貴重なビデオがあり、この気象擾乱に着目している。 大地震と気象擾乱の関係についてだ。

 この気象擾乱は、大正12年の9.1関東大震災の前後にも起こっていた。 正午頃だというのに入道雲が発生し、突風が起こったと記録さている。 それにより、火災旋風(炎の竜巻)が発生、被害を大きくしたものだ。

 この気象擾乱が、この時にも起こった。 突然風の向きが変わり、強い風が吹き荒れた。 時折粉雪もちらついた。 主に煙だけだった火災だが、この風によって大きな炎に変わった。 東京湾周辺で発生した複数の火災、そしてこの炎の熱に吸い寄せられるかのように風が巻き、竜巻が発生した。 火災は弱まるどころか、その勢いはますます強くなっていくのだ。 そして1時間ほど経った頃だろうか、火災による炎と複数の竜巻があわさった、あの恐怖の、火災旋風が起こってしまったのだ。

 この火災旋風は1000度を超える。この炎が、首都東京の人々を、情け容赦なく焼き尽くしはじめた。イサはこれを、少し離れた西東京市付近の公園から、ただ呆然と見ていた。

 イサは、これはやばいぞ、、、、。 このままでは、僕も死んでしまう。 何とかしなければと、必死になって考えた。

 そこに、公園のトイレが目に入った。 そのトイレは鉄筋コンクリート造で、アルミ製の扉が取り付けられていた。 扉を開けて中に入ってみると、仕切られた身体障害者専用のトイレがあり、そこにも確りとした、今度は鉄製の扉があった。タンクには水も残っていた。 イサはそこに逃げ込み、持っていたペットボトルを取り出し、着ていた服にタンクに残っていた水をかけた。 

 それから10分ほど経ってからのことだっただろうか。

 イサを、焼け死ぬ程の熱風が襲ったのは、「ガタッ ゴトゴトゴト ガガガッ」ともの凄い音が聞こえた、と思ったその瞬間だった。 イサはとっさに革製の鞄の中身を放り出し、頭から被った。

熱風が襲ってきたのは、2、3回だっただろうか。 ところどころ火傷をしたが、死ぬことはなかった。

 イサはこうやって、この難を危機一髪で逃れたのだった。 生き残ったキヨと、その後も幸せに暮らしたそうだ。

 しかし、この関東大震災によって、首都東京は壊滅した。
 
 また、見た目は豊かだった日本経済も、この地震によって失われた。
 
 だが、 日本は、この震災が起こったことによって、お互いが助け合って生きる『心豊かな社会』へと、この後向かっていくのであった。 

 大震災とは、失うものばかりではないのだ。 忘れていた人への優しさや思い遣りに目覚めた人々によって、日本社会に、いままで以上の愛が芽生えたのであった。 これにより人々は、物欲とはまた違った意味の、満たされし日々を送ることとなった。

 

11.8.19東日本にM6.8(速報値)の余震

■【東日本】青松倶楽部地震予測実験メール【№110812-01~02の結果報告】■

2011年8月19日14時36分
福島県沖 ( 北緯37.6度、東経141.9度、牡鹿半島の南南東80km付近)で震源の深さは約20km.M6.8(速報値)の地震が発生した。


【8/21、気象庁修正値】2011年8月19日14:36:31.6 37゜38.9'N 141゜47.8'E  51km M:6.5 福島県沖 最大震度:5弱

2011/08/21 00時05分 -訂正以上-

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結果報告、第一報

 【熱線】に該当する地震が発生しました。8.19.14:36、震源:福島県沖、マグニチュード(M)6.8(速報値)、最大震度5弱

 津波注意報が出されました(その後、15時15分には解除された)。

 この地震は、2011年8月21日の、予兆(添付画像<熱線>)を確認から、7日目の発生でした。

-以上-
2011/08/19 14時48分 -速 記-

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下記は、会員さまへ送信した予測メール
8月18日
■【東日本】青松倶楽部地震予測実験メール【№110812-02】■

 現在までのところ、東日本の余震・震源域では、M4からM6.2の地震が多 発傾向となっております。
 しかし、この実験に該当する予兆規模にはまだ、規模が足りていない、と、そう考えています。引き続き要注意すべきです。
 観測状況より、11.8.22(±2)および11.8.29(±2)を中心に、 M6~M7の余震にまだ、警戒すべき状況であろう、と現況を考察いたします。

-割愛-

-以上-
2011/08/18、8時44分 -記-

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■下記、2011/08/12、21時18分送信済みの実験メール。■
8月12日
■【東日本】青松倶楽部地震予測実験メール【№110812-01】■

 本日の衛星画像にて、規模、東日本大震災3.11M9.0の前ほどではないですが<熱線>を確認しましたのでご報告申し上げます。添付画像をご参照下さい。

 この熱線により推定される地震規模はマグニチュード(M)6.5(±0.5)です。

-省略-
地震規模の大きな、新規・余震予測実験となります。
★推定される震源は、東日本大震災の震源域です。

 この地震の発生までの期間。
 東日本の場合、地震規模がM6.5前後ですと、大半が5日間以内です。早ければ72時間以内にも、起こると考えています。

 また、予兆と地震規模の推定に関してですが、予兆が内陸震源と海域震源とでは、圧電効果により出る赤外線が海水を通過してくる分だけ、海域震源の場合、規模-1.0前後の修正が必要です。これを考察した結果の予測規模となります。

-省略-
-以上-
2011/08/12 21時18分 -記-

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【8/19<熱線>に該当した結果】
110819M68.jpg

2011年8月12日に出た、前兆現象<熱線>
11081219sekigai-web.jpg

そのとき。

2012年5月21日その時、あなたは誰と居ますか?

 これはフィクションではあるが、可能性はけっして低くない、現実の物語を予想して書いてみた。

 2012年5月21日午前8時54分、その時が、突然街を襲った。

 この日、タクは名古屋で金環日食がはじめて見られる日ということを聞いて、一度は見てみたいとの興味本位から、彼女(カヨコ)と一緒に夜明け前より伊勢志摩へと出掛け、ともやまから太陽を見ていた。

 日食は午前6時15分ころからはじまり、7時30分前頃には、辺り一面が昼間なのに真っ暗になった。初めてのことに、タクとカヨコは今までに感じたことがない、感動に酔っていた。

 そして、午前8時40分頃に日食が終わって、感動もまだ覚めやらぬなか、カラスたちが突然飛びはじめ、まるで狂ってしまったように空を旋回しはじめた。まもなく、どこからか地面を切り裂く様な鈍い音が小さく聞こえた。

 タクはそれを見て、カラスも腹が減っているんだろう、そう思った。

 最初、ゴトッとした足の裏に鈍い衝撃を感じたその時だった。突然、コンクリート制の電柱が倒れはじめ、立っていることも出来ない激しい横揺れが体を襲い、そしてみるみる間に遠くの建物がみな倒壊していった。

 その凄まじい、悪夢のような光景は3分以上続いたが、実際には、10分、いやそれ以上の長い時間に感じた。兎に角、このたとえようもない恐怖が早く終わってくれることを、ひたすら願った。

 遠くでは炎があがり、炎の竜巻も見えた。タクとカヨコは、それを呆然としただ見つめていた。それから、車に乗り込んだ二人はエンジンを掛けラジオをつけた。民放だかNHKだかはわからないが、放送内容から、静岡から四国沖の広範囲でM8.7の地震が起こり、各地では凄まじい被害が出ているようだった。 

 父が地震研究家だったタクは、すぐさま高いところへ避難すべきと考えた。そして海面から30メートルほどの岸壁まで、やっと辿り着いたその時だった。あの激しい揺れから、まだ10分も経っていなかった。海の遠くに、山が見えた。

 最初はそれが、何なのかわからなかった。しかし、あっという間に迫ってきたその魔物の正体とは、高さがゆうに20メートルを超えているであろう、巨大な、炎をともなった津波だったのだ。タクはその時カヨコに言った、「ごめんね、こんなことになって」と。

 その直後、その津波が高さ30メートルの岸壁に叩きつけられたその瞬間、大地がドスッと揺れた。波しぶきは頭上を越えて、遠くまで飛んでいった。辺り一面の木々は折れ、何もなくなっていた。

-つづく- 

 炎の津波は、海溝深くにあるメタンハイドレート層のガスが、大陸棚の崩壊によって漏れ出し、海水を伝わったため化学変化を起こして、空気に触れて引火したものだった。そのとき、タクには津波と炎が何故一緒になってやってきたのか、その理由など分かるはずがなかった。

大きな岩のあいだに体を沈め、何とかこの難を逃れたタクとカヨコは、このあと、直ぐにやってくるであろう第二波そして第三波の、巨大津波を想像した。この時、岸壁の下に残してきた車は姿もなく、道路も無くなっていた。津波は、真珠養殖のイカダを次々に壊して湾の中へ入り込んでいくのが見えた。

「もっと高いところへ逃げなければ、このままでは駄目だ」タクはカヨコにそう言うと、震えで足腰が立たなくなっていたカヨコの手を引っ張り、さらに高い岩壁の上をめざして登った。まだガタガタガタとした揺れが続いていたが、何とか必死に、登った。その時カヨコが言った「もう嫌だ」「まだ死にたくない」と。

-つづく-

 それでも、やっとの思いで高さ40メートルまで登った、その時だった。高さ30メートルの津波・第二波が、やはりやってきたのだ。

 タクは言った。「何とか助かった」。だが、タクやカヨコにはまだわかっていなかった。これから救助隊がやってくるまでの5日間、水や食料を確保しなければならないことが。そしてまだ5月だ、夜の冷え込みに備え、壊滅した津波のあとを彷徨いながら、避難する場所を探さなければならないのだ。

 何度も何度も繰り返しやってくる津波を見ながら、タクは子供の頃から父親が言っていた言葉を、その時になってやっと思い返していた。また、都会で暮らすうちにすっかり忘れていた、子供の頃に父親に連れられてはキャンプに行き、何度か水難に見舞われたときのサバイバル生活を思い返した。

 カヨコが震えながらタクに言った「ねぇ、私たち生き残れるかな」。 タクはカヨコを強くだきしめて言った「大丈夫だから、俺に任せて」と。というのが、タクには自信があった。この近くにある、地元の人が『さんとうさん』と呼ぶ場所に、子供の頃、何度か家族で遊びにきて、青ウニや魚を捕ったことがあるからだ。また、そこには湧き水が流れ落ちていて、その水で体を洗ったりしていたからだ。 

 だが、タクはこの考えが甘かったことを、後になって知ることとなる。 地震によって水脈がかわり、湧き水も止まったことなど、タクには分かるハズなどなかった。

-つづく-

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 こちらを先に書き終えようと、サバイバル本を何冊か購入し、準備していたのですが、9/5に父が脳梗塞で突然倒れまして、バタバタしている間に1.5ヶ月が過ぎてしまいました。 昔読んだ本とあわせて、全部読み終えたら、続きを書きます。

御免なさい。m(__)m

学者らに、予測の経験則など、最初からない。

よくもまぁ、恥ずかしくもなく、こんなコメントが出せたものだと感心した。

予測とは、休みもなく、常に動きを監視し、そして数多くの経験を積み上げること。
それ以外のなにものでもない。一度も予測などしていない、また24時間常に観測に目を光らせてもいないものが、いきなり、予測など出来るはずがなかろう。

予測の経験則とは、本来、コツコツと休むことなく努力を積み重ねる、泥臭いものだ。
元から、優秀な方々が、やるような仕事ではない。

◆だが、特に呆れたのは、このコメントだった。

>2日前に近くで起きたM7級は前兆現象の「前震」とみられ、今後の検証が必要だが、それは「本震」が起きた後で分かった結果論でしかない。 

そう思っているのなら、それは、あなた方には予測の経験が足りていなかった。 それだけのことです!
学者先生方々は、これを前震だと、気が付きもしなかったとしたら、真摯に反省すべきことであろう。


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崩れた地震学、学者ら予測できず 「歴史の空白」盲点に
産経新聞
2011.4.14 17:18 (1/3ページ)
「東海予知」ハードル高く
 「過去30年の地震学が崩壊した」。東日本大震災の巨大地震に地震学者が打ちひしがれている。史上最大の地震を予測できず、研究を防災に生かせなかったからだ。敗北の裏には、過去の経験則に基づく地震学の限界があった。東海地震の予知もハードルは高く、「予知失敗」を前提とした対策が求められる。(長内洋介)
前例がない
 マグニチュード(M)9・0の巨大地震は、なぜノーマークだったのか。政府の地震調査委員会で長期予測に携わってきた島崎邦彦東大名誉教授は、まず「歴史の空白」を挙げる。
 日本は地震の記録が世界で最も多く残っている国だ。史上最古の地震は日本書紀に書かれた大和時代の416年。その後も京都などで日記や歴史書に記載され、江戸時代の大地震はすべて記録されている。
 ところが、都から遠く離れた東北地方では平安時代半ばから江戸初期までの数百年間、記録がまったくない。今回のような巨大地震は江戸以降もなく「起きないという考えに自然と傾きがちだった」(島崎氏)。
 過去の地震から規則性を見いだし、それを検証して将来を考えるのが地震予測の基本だ。前例がないと研究は進まない。地震学は自然科学であると同時に、歴史学の側面もある。そこに盲点が潜んでいた。

2011.4.14 17:18 (2/3ページ)
定説の呪縛
 科学的な見地からも、東北地方のM9クラスの巨大地震は否定されていた。
 地球の陸地や海底は、プレートと呼ばれる複数の大きな板状の岩で覆われている。海のプレートは徐々に移動し、陸のプレートの下に沈み込む。2つのプレートの境界がある海溝付近が巨大地震のすみかだ。
 ただ、プレート境界は場所によって性質が違う。チリ地震で有名なチリ海溝は、普段はがっちり固着して動かず、あるとき急にずれて巨大地震を起こす。一方、マリアナ海溝や伊豆・小笠原海溝は普段から境界面がずるずると動いているため、大地震は起きない。
 東北沖の日本海溝は、北は「がっちり型」だが、南は「ずるずる型」とされ、全体が連動する巨大地震は起きないというのが1980年代以降の定説だった。
 「M9は限られた場所でしか起きないという考え方はスマトラ沖地震で否定され、今回で息の根を止められた。根本から疑って考えるべきだった」。島崎氏は無念さを隠さない。

前兆現象
 「どうして予知できなかったのか」。大震災後、こんな声が研究機関などに寄せられたという。結論から言えば、今回の地震の直前予知は不可能だ。
 将来の発生確率を推定する長期予測と異なり、予知はその地震が起きる過程を想定し、前兆現象を見つけることが必要だ。今回の地震はそもそも発生を想定しておらず、前兆の観測態勢もなかった。2日前に近くで起きたM7級は前兆現象の「前震」とみられ、今後の検証が必要だが、それは「本震」が起きた後で分かった結果論でしかない。

2011.4.14 17:18 (3/3ページ)
 仮に前震の時点で「巨大地震が来る」と発表したらどうなったか。大混乱を招いたか、無視されたかのどちらかだろう。予知は学術的な判断だけでなく、社会の受け入れ態勢がないと情報として成立しない。

社会の備え
 予知の体制が唯一、整っているとされる東海地震。地震の直前、プレート境界がわずかに動き出す「前兆すべり」をとらえる作戦だ。気象庁は東海地方の想定震源域で地殻変動を24時間監視しており、前兆すべりが起きれば確実にキャッチできるという。
 ただ、問題は前兆すべりが起きる保証はないということだ。防災科学技術研究所の岡田義光理事長は「運が良ければ予知できるが、可能性は2、3割かそれ以下。予知できると考えるのは危険」と警鐘を鳴らす。
 東海地震は、隣接する東南海地震や南海地震と連動して起きる可能性も高まっている。約65年前の東南海・南海地震は紀伊半島沖が震源だった。東海が連動する場合、現在の想定震源域とは違う場所で地盤が割れ始める可能性があり、そうなれば予知は困難。3つの地震が連動すると、今回の大震災に迫る巨大なエネルギーが予想されており、予知を前提としない社会の備えが急務だ。
 阪神大震災以降、海溝型地震の研究は衛星利用測位システム(GPS)による詳細な地殻変動観測でメカニズムの理解が深まった。想定震源域を細分化しての議論が活発に進んだ半面、大局的な議論が停滞した印象は否めない。既成概念にとらわれず、これまでの想定を謙虚に洗い直す作業が必要だ。
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東海地震-東南海(および南海)地震の前駆活動

shizuoka.jpg

平成23年08月12日04時42分12日04時37分頃遠州灘 M5.2
( 北緯34.4度、東経138.2度)深さ約10km、静岡県 愛知県 震度2

*これで、紀伊半島沖、または浜名湖沖で地震が起これば、東海地震・東南海地震の連動型が発生する、準備は整ったと、その可能性を考えるべきだ。*

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