昨日の取材で聞かれたこと(http://aomatsuclub.blog.fc2.com/blog-entry-260.html)-続き-
先ず、私が地震予測をはじめる事になった切っ掛けについて。
1995年1月17日
阪神淡路大震災当時、私は豊田青年会議所に所属していた。そのROMからの復興支援で、1月末頃に西宮へ物資の搬送と、避難所にいる子供たちへ豊田青年会議所のキャラバンカーを使ってアニメを見せる為ボランティアに行くこととなった。
ROMとは東海ブロック(青年会議所)の中の豊田青年会議所(地区単位)の意味。 午前、港付近の倉庫で物資を積み込み西宮の球場でカセットコンロを配る時の話だ。避難生活をおくられている人々の中へ、一人のベンツに乗った50代後半の女性がやってきて、「あら、これタダなの」では「一つ私にもください」と言った。手渡した後のこと、この女性が言った言葉が 「家に一つ有るのよね、でもタダだったら貰っておくわ!」 これにはちょっとビックリし怒りさえ感じた事を今でも覚えている。
では本題に入りますが、午前中物資の輸送が終わったあと、午後からは各地の避難所で被災した子供たちに予めキャラバンカーの後部貨物室の壁を黒くし大きなモニターとビデオ、音声機器、電源装置など備えて行きましたので、後部のハッチを開けて モニターを後部へ移動して 並んでもらった子供たちへアニメを見せる事を行ったのです。 まだその当時はライフラインも復興の最中、テレビなどは有りませんでしたので、少しでも癒せてあげれたらとの思いからROMで企画し実行したことでした。 最初に見せたのは記憶で
はドラエモンだったかな? と思います。 そこで子供達がアニメを一生懸命見ている間、それまでとだえていた子供達の笑い声が聞こえる中、 待ち時間の間あいだに被災者の方達と会話することが出来た。
その会話の中で「地震の前には月が赤かった」や「空が二つに割れていた」やら、様々な宏観現象について聞く機会が有ったのです。勿論その当時の私は宏観現象異常などにはまったく興味が無かったのですが、いろんな事を話してくれる事で少しでも気持ちが楽になってくれたら良いなぁ。兎に角 話を聞こう、と思っていました。 これが後の
地震予知の青松 進村耕喜 の誕生へ、と繋がるのです。 -続く-
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